私、まっくすの生まれてから社会人になるまでのヒストリーを描いています。
保育園に通っていた頃から大学卒業するまでの思い出です。
だいたいこんな感じだったかな。
自分では分からないけど、
人がこれを読んだらどう感じるのかなって興味があります。
自分をさらけ出すのはある意味怖いものだけど、
それを受け入れてくれる人がいるのなら、
何か感じてもらえたら嬉しいです。
②子供のころの方がやはり柔軟だ(小学校低学年頃)
③子供とは言え何でも理解できる頃に経験したこと (小学校高学年頃)
④ビーバップハイスクール!?(中学1年生頃)
⑤一歩前に踏み出した自分(中学2年生頃)
⑥様々な壁を乗り越える(中学3年生頃)
⑦義務付けることを演じていた(高校1年生頃)
⑧THE 受験戦争(高校2年生頃)
⑨気付き始めてからギアが入った(高校3年生頃)
⑩これまでの呪縛から解放され、気ままに生きてみた。しかし…(大学生の頃)
私の本当の姿はここが原点なのかもしれない
私は福岡県の姪浜という場所で保育園時代を過ごしました。
室見川が近くに流れ、その川では「しらうお」というめだかサイズの魚が取れます。
「踊り食い」と言って、生きたまま食べるのが有名な魚です。
幼少期の私は外に出て遊ぶのが好きで、毎日のように遊びに行っていました。
当時は今よりも外で遊ぶことが危険ではなかったので、
保育園児だけで外で遊ぶことが普通でした。
何かと物騒な今現在の世間では、
親が必ず付き添っているのが普通ですよね。
時代は絶えず変わっているようです。
そこで子供なりに様々な経験をして、
子供だけで子供同士や大人との交流を経験していました。
家の外ではサバイバルです。
冒険をしているような感覚なんでしょうか。
いつもワクワクしていました。
もちろん子供ですから、とんでもないことをやらかしたりします。
なぜか川や海などに入りたがります。
溝などの用水路的なところでも入りたがります。
結構臭かったと思うんです。
親が言ってましたから。
「どぶ」に入って何が楽しんだろうって。
ある日、近くの室見川に入っていき、
岸側は水が引いていてぬかるみ状態なんですが、
そこを突き進んでいき、
腰までいぼって抜けなくなったこともあるそうです。
私の記憶にはないんですよ(笑)
そりゃ臭いのなんのって、強烈な臭いだったそうです。
ある時は、昼間に友達と遊んでいて、
駄菓子屋のようなお店の前にガチャガチャが置いてありました。
そこにはピンポンだまが沢山入っていました。
それがたまらなく欲しかったのを覚えています。
夕方家に帰るとお母さんに言います。
「ピンポンだまが欲しいから10円ちょうだい。」
「妹の分もあるから2つで20円。」
こんな感じだったと思います。
当時のガチャガチャは10円が普通でした。
そして20円を握り締め、妹と自転車に乗ってその駄菓子屋さんに行きました。
駄菓子屋さんに到着して早速ガチャガチャを回します。
「がちゃがちゃ」と音をたて、ピンポンだまが出てきます。
妹も分も回します。
「がちゃがちゃ」
同じようなピンポンだまが出てきます。
恐らくそれが人生初めてのガチャガチャだったと思います。
やってみると思うんですが、
まあ、こんなものかと冷めた気がします。
既に暗くなりかけていたので、急ぎめに妹と家に帰りました。
私が自転車をこいで、妹は後ろに乗っています。
2人乗りです。
いつものことです。
今でもはっきり覚えていますが、夕方でちょっと薄暗い感じでした。
私と妹を乗せた自転車は下り坂を気持ちよく下っていました。
いつも通り気持ちよく下っていましたが、
自転車は子供の想定を超えたスピードで下っていたのです。
歩道と歩道の空いている部分ってありますよね。
切れている部分っていうのか。
歩道が終わって次の歩道に上がるときです。
自転車の前輪が引っかかり、
私と妹と自転車は大きく回転しました。
どんな風に飛んだのかは記憶にありません。
ただ次の瞬間には、とてつもない痛みが全身を襲っていました。
両肘、両膝はもちろん顔の側面が削れ、
私は血だらけになっていました。
妹のことが気になりましたが、
妹はどうやら大丈夫のようです。
とっさにどのような行動を取ったのかは覚えていません。
交通量の多い道だったと思います。
通りがかりの車が止まって、泣き崩れていた私達を車に乗せてくれました。
私達は家の近くまで乗せていってもらい、
降ろしてもらいました。
そこから歩いて家に戻りました。
今思うと、私達を拾ってくれた人もビックリだったと思います。
本当に血だらけでしたから。
車も血だらけになったと思います。
家族連れの人だった記憶があります。
当時団地に住んでました。
2階か3階に住んでました。
上がっていくと家には来客があり、
玄関先で話しています。
新聞の集金です。
おじさんもビックリして何かを言っていました。
そして母親が顔を出してみると、
我が子が血だらけで帰ってきたのですから、
そりゃビックリ仰天です。
まさか自分の子供ではないだろうと思って見てみると、
そこに立っているの大怪我している子供が自分の子供なんですから、
ビックリです。
次の日に母親は病院に連れて行ったそうですが、
「大怪我してるんだから、夜でもすぐに病院に来ないと!」
と先生や看護師さん達に怒られたそうです。
この出来事は保育園時代の記憶では鮮明に覚えていることです。
他にも覚えていることは沢山ありますが、
この出来事は鮮明です。
何ヶ月か病院に通った記憶があります。
まあ、幸いにして後遺症もなく、傷跡もありません。
包帯ぐるぐる状態の写真は残ってますが、
顔が笑っています。
不気味です(笑)
こんな感じで外でよく遊んでいました。
保育園の年長あたりでしたね。
自転車に乗れるようになったのがその頃です。
友達とどっちが先に自転車に乗れるように慣れるか競っていました。
そして、北海道に行った記憶もあります。
北海道は父親の古里なんです。
福岡から初めて飛行機に乗って札幌まで行き、宿泊。
ホテルの外は初めて見る雪景色。
歩道は腰まで埋まるくらい雪が積もっていました。
妹と二人で大はしゃぎして突き進むと川があります。
ちょっと覗き込んでみると、
「ざざざざざぁぁぁぁぁぁぁーーーー」
私は川の下へと雪と一緒に転げ落ちていきました。
川は凍っていました。
見上げると妹がこちらを見ていました。
そのもっと上にホテルからこちらを見てる両親が見えました。
今思えば、何で助けに来ないんだろうって疑問です(笑)
妹に上から雪を沢山落としてもらい、雪の階段を作って上がりました。
意外に冷静に対応できたと自分なりに感心します。
保育園児ですから、その時は大きなものに見えていますが、
実はしょぼい大きさだったのかも知れません。
そうやって始まった北海道旅行ですが、
父方の実家には1週間か2週間くらい滞在していたと思います。
酪農をしていましたので、牛を見たり、出来立ての牛乳を飲んだり、
北海道の食を食べたり、農場の器具やトラクターに載せてもらったりと
貴重な体験ができました。
今思えば良い思いでです。
北海道から帰ってくると、私は一人で保育園の卒園式をします。
そうなんです。
北海道に行っていた期間に卒園式があってたんですね。
なので卒園式の記憶は、
家族と私とで行って、
他の園児は誰もいなくてしました。
そして先生と少し話して終わったように思います。
そんな記憶です。
そんな感じで私の幼児期は過ぎて行きました。
子供のころの方がやはり柔軟だ
保育園を卒業すると、私達家族は母親の実家である福岡県の粕屋町に引っ越してきます。
家庭の事情で引越しもしますが、社会人になるまではここで過ごしました。
100年以上の歴史を誇る小学校へ入学します。
母親もその小学校の卒業生です。
職員室の前には歴代の小学生達の入学写真なのか卒業写真なのかは分かりませんが、
集合写真が飾られていました。
昔のものは白黒だし、着物着てるし、色薄いし。
といった感じです。
入学して仲の良い友達ができました。
学校から帰っては毎日のように遊んでいました。
その友人の家は学校から見ると私の家とは間逆方向です。
寄り道はダメだと先生からは言われていましたが、
まずは私の家に2人で帰ります。
そしてインスタントラーメン「うまかっちゃん」を作って食べます。
両親とも働いていましたので、家には誰もいません。
自由です。
給食の食パンを沢山持って帰ってきていましたので、
それもオーブンでチンして食べたりしていました。
今では小学生に調理させたら危ないなんて声も聞こえたりしますが、
普通にガスで調理していました。
ある程度のことはさせてもらえる、そんな家庭でした。
食べ終わると今度は友達の家に行きます。
また学校から帰ってきた道を戻り、学校を過ぎるようにして友達の家に向います。
友達の家の方が近くに山があったり川があったりしたので、
そこでよく遊んでいました。
小さなダムがあってその下流はずっと浅瀬が続いている川があって、
川遊びをする場所は決まっていました。
この辺はほとんどが「多々良川」か「猪野川」です。
フナ、ブルーギル、コイ、タナゴ、めだか、どんこ、はや、皮えび、亀、すっぽん、雷魚、ザリガニ、蟹、…
ざっと覚えているだけでも沢山の魚がいました。
基本的に網や手づかみで取っていました。
石で囲ってその囲いの中に魚が入ってくるのを待って、
入ってきたら入り口をせき止めて、
後は必死に手で捕まえます。
網も使います。虫取り網です。
投げる網も使っていました。
小学生の癖に漁師みたいです(笑)
釣りもしていましたが、
釣りのセンスはあまりなく、
釣れないのであきらめて川に入っていました。
滑ってこければびしょ濡れです。
開き直って後は泳ぐのみ。
それだけ綺麗な場所だったんだと思います。
今ではそんな光景はありません。
荒れた川へと変わっています。
小学校2年生くらいからはファミコンの虜になりました。
私の家にはありませんでしたが、
その友達はすぐに買ってもらったので、
2人でやりまくってました。
もちろん川でも遊ぶんですよ。
ファミコンして、飽きたら川。
そんな日が続きます。
裏の山に行けば探検です。
落ちている木や竹を槍に見立てて登ったりしていましたね。
無邪気です。
「プレデター」っていうSF映画が流行っていて、
プレデターごっこなんて言って山に入っていましたね。
無邪気です。
その山にはセミ取りにも行ってましたが、
クワガタとかもいました。
見つけたときは嬉しかったものです。
今でもいるのかな?
そんな感じで小学校低学年を過ごします。
勉強をした記憶は全くありません。
勉強するって感じじゃなくて、
学校に行って授業を受ける。
ただそれだけです。
私はあまり先生と仲良くするタイプでもありませんでした。
リーダー的存在でもないし、あまり社交的でもありません。
仲良くなった人とはすごく仲が良くて、
その友人達の親とも仲良くなるような感じです。
人見知りではあったと思います。
目立つタイプではありませんでした。
あ、それは今でも同じです(笑)
手を上げて発表もしたくないタイプですし、
人前でも緊張するタイプです。
ですから、特定の決まった人とだけよく遊んでいました。
みんなと仲が悪いとかじゃないですよ。
よく遊ぶ人が何人か決まってたということです。
あとは近所の同じクラスの友達や
家の周辺の年上の人とかですかね。
よく遊んでいました。
そして小学校3年から4年生に上がるときに、
引越ししました。
それほど遠くではありませんでしたが、
転校することになりました。
仕方のないことですが、
子供にとって転校することは一大イベントです。
ワクワクするというよりも不安になるタイプでしたので、
なじめるかなとか、
大丈夫かなとか、
色々考えました。
妹はまだ小さかったのであまり記憶にないらしいです(笑)
新しい学校に入ってみると
思っていた不安というものはすぐに無くなっていきました。
新学期が始まったという区切りというのもあってか、
すぐに皆になじむことができました。
次第に年齢も上がって色々と欲が出てくる年頃です。
前の小学校よりは自然のないところだったので、
遊びといえばファミコンだったり、
プラモデルだったり、
ミニ四駆だったりしました。
ミニ四駆なんてめちゃくちゃはまって
お小遣いをもらえたときや
誕生日なんかは買ってもらってました。
何となくですが、
手先が意外と器用なのは
子供の頃から手足を使ったり、
体を使ったりして遊ぶのが好きだったからのような気もします。
父親も物作ったり畑仕事したりするのが好きでしたし、
母親も料理好きですし、
裁縫も好きだし、
親の影響も大きいですね。
人間形成って育ってきた環境によって傾向が決まりますよね。
オオカミ少女なんて話題になりましたが、
ずっと4足歩行だったそうです。
生肉食べていたそうだし。
子供とは言え何でも理解できる頃に経験したこと
そして、小学校6年生の時には
また以前行っていた小学校に戻りました。
転校です。
引越しです。
まあ、例によって不安はありましたが、
出戻りということで、
顔見知りも沢山いましたし、
仲の良かった友達も同じクラスになり、
良かったと思います。
小学6年にもなると、低学年のときよりも外で遊ぶことはなくなったように思います。
川遊びもやってましたが、ゲームをする時間も多かったですね。
近くの駄菓子屋に置いてあるゲーム機をやったりしていました。
やっちゃいけませんけど、
100円でやるゲームを5円でやってたりしました。
ある方法を使うと5円でできてたんです。
お店の人もやられたって感じですよね。
集金したら5円が入ってるんですから。
ガチャガチャでもやれてました。
50円や100円するガチャガチャが1円でできるんです。
やっちゃいけませんよ。
犯罪ですから。
そんな悪さもしてましたね。
万引きと一緒です。
万引きしてこっぴどく叱られたことも
もちろんありますよ。
警官に頭叩かれました。
僕は泣かなかったですが、友達は泣いていました。
親と一緒にお店に謝りに行きました。
それはそれなりに
悪いことやいけないことを学んだ気がします。
後に残るのは罪悪感やら空しさやら
頭のコブの痛さやらですかね。
心に深く残ってます。
あと、ビックリマンシールっていうお菓子についていたシールを必死に集めていました(笑)
知っている人も多いかな。
買った袋のラベルを張って送ると専用のアルバムがもらえたりとかして、
すごく集めてました。
綺麗に入れてコレクションしてましたね。
中学生の時にふとコレクションに飽きて
従兄弟(いとこ)にあげたんです。
でも次に会った時には全て無くしてましたが…(泣)
興味がない人にはどうでもいいんですね。
僕には思い入れがあっても相手には全くありません。
あげたものですから、僕がとやかく言ってはいけません(泣)
ああ、ちゃんと取っておけばよかったな…
従兄弟は母親方の方が多かったです。
というより、
母親方の従兄妹とはよく会っていました。
父親は北海道出身で福岡に出てきたので、
父親方の親戚にはほとんど会ったことがありません。
母親は4兄妹でしたので、従兄妹は多かったです。
従兄弟とはすごく仲が良くて、
夏休みや冬休みなどの長期の休みの時は、
泊まりに行ったり来てもらったりしていました。
幼少の頃からよく会っていたので、
兄弟姉妹のように仲が良かったですね。
男が私を含めて5人、女が妹を含めて3人です。
北海道を合わせるともっと大人数です。
小学校時代の思い出です。
小学校の卒業式には出席できました(笑)
ビーバップハイスクール!?
中学校に入学します。
小学校のすぐ近くでした。
川を挟んで向かい側にありました。
ほとんどが同じ小学校からの入学でしたので、
知っている人ばかりです。
やはりドキドキしましたよね。
不安と期待に胸がいっぱいでした
だってその中学校はいわゆるヤンキー達がいる中学校なんです。
今はどうなのかは知りませんが…
ビーバップハイスクールって知ってます?
あそこまでは無いにしても、そんなイメージです。
「ソリコミ」ってっ知ってますか?
おでこの左右に頭頂部に向って三角に剃りを入れるんです。
それがヤンキーの証。
だったんです。
その当時は。
その人達のお陰で(?)
普通の人達も「ぼんたん」「短ラン」「長ラン」「ミニスカート」当たり前。
まあ、一部のグループではありますが。
そんな学校に通いました。
私は部活をやっていました。
軟式テニス部。
その当時は弱小でした。
まあ、弱小だったんで、担任の先生もほとんど来ません。
というか僕が在籍していた2年間で一度も見たことがありませんでした。
そこで先輩後輩の関係とか学んだような気がします。
しかし、真剣に部活をやっているというか、
遊びの延長のような感じですごく楽しんでました(笑)
仲間もできました。
遊びに行く人も部活の人が多くなりました。
もちろん幼馴染とも遊ぶし、テニス部のメンバーとも遊ぶし、
小学校とは違ってちょっとずつできることも増えてきました。
もちろん意見の食い違いで言い争うということもあります。
多感な時期です。
それまで運動や真剣にやったりしたことはありませんでしたが、
運動神経が悪いとかは無かったです。
外で遊んでいたりしていましたし、親もすごく運動神経が良かったです。
変わって勉強のほうと言いますと、
小学校時代に勉強を頑張るとかはほとんど無かったと思います。
宿題が出てもやりたくないな~と思いながらもやっていたような少年です。
期末、中間テストにしても赤点とることもしばしば。
赤点取った後に居残り授業やテストがあることすらもちょっと楽しかった経験です。
そんな感じで中学1年生を過ごしていきました。
一歩前に踏み出した自分
2年生になってクラス替えがありました。
そこでも中のいい人は同じクラスになり、
小学校で一緒だった人もまた同じクラスになったりと
周りの友達関係はスムーズにいきました。
まあ、特に目立つような生徒ではなかったので、
それほど困るような感じもありません。
まあ、ヤンキーやってる皆さんは一定数同じクラスにいますから、
そこにちょっと気遣いはあります。
少しでも機嫌を損ねると、いきなりいじめが始まりますから。
恐かったですよ。
暴力なんて普通に合ってましたから。
先生に被害が及ぶこともありました。
それが原因で転校する生徒までいましたよね。
表向きの理由は違いますが。
喧嘩するほど仲がいいなんていいますが、
幼いうちから抑制するのもあまり良くないのでしょうか。
難しい問題ですね。
親の教育、学校での教育って大事です。
オオカミ少女の話を思い出します。
そんな頃、僕はたまたま新聞のチラシを見ました。
家のテーブルにたまたま置いてあったやつです。
本当にたまたま見たんです。
その頃、私は何気に勉強に対して興味を持っていました。
漠然とどこかでやらなきゃなって思っていたのかもしれません。
それまで勉強なんてあまり興味が無いと思っていたし、
それほどしたこともなかったんですが、
本当によく分からないんですが、
新聞のチラシには、町内の様々な広告が載っているものでした。
そこに「○○ゼミナール」という塾の説明会の広告が載っていたのです。
私は何気に母に、この塾に行ってみたいと言ったのです。
母はもちろん良いよって感じでした。
そうして早速母に電話をしてもらい、説明会に向いました。
説明会には同じ中学の知っている人もいました。
隣町の中学校の人もいました。
10名ほどでしょうか。
何となく皆入塾するんだろうなって気持ちがありました。
月謝も安かったんです。
月に10,000円くらいでした。
そうして私は家の近くの塾に通うことになりました。
週3回でした。
18時か19時からかは忘れましたが、
夕方から行って、21時くらいまであってたと思います。
いつもとは違う生活パターンに新鮮な気持ちがありました。
ちょっと充実してるような感じです。
塾は本屋の2階にありました。
今では絶滅しかけている小さな本屋です。
隣にはお菓子やがあって、道の向かい側には
通称「メリーランド」と言っていたソフトクリームの形をした3~4畳ほどの小さな店舗がありました。
今では滅多に見られることはありません。
塾の始まる前や休憩時間、帰りによって、そこでアイスやたこ焼き、ジュースなどを食べるのが楽しみでした。
仲のいい幼馴染も誘って塾に通うようになりました。
この塾通いが私が勉強するということに一生懸命になっていくスタートだったような気がします。
塾自体のレベルはそれほど高くはないようでした。
過去にはその学区で一番いい高校へ行くような人達もいたそうですが、
私の行っていた時代にはそうではなかったです。
人数も少なく、同じ学年で10人くらいです。
学校では特別成績がいいわけでもない私が成績上位にいたのですから。
そういう訳で何となく塾では勉強を義務付けられたような位置になりました。
おのずと目指す高校はその学区で一番良い高校になりました。
もともと勉強をするような子供ではなかったので、
得意だということもありません。
ひたすら暗記と練習を繰り返していました。
インプットとアウトプットを繰り返しました。
同じクラスの人に負けたくないとかいった気持ちから頑張っていたようにも思います。
教える側の塾長も必死だったと思います。
夏休みなんかは塾の鍵を渡してくれて、
いつでも塾に来て勉強していいと言ってくれました。
毎日のように通いました。
一人でしたが、
なぜか必死でっ塾に通って勉強していました。
夏期講習なんかもあってたと思いますが、
こなしながら空いた時間はっ塾に行っていたような感じです。
それでも学校では部活もやっていたので、
割と忙しくしていたのかも知れません。
友達とも遊んでもいたので、
どうやって時間を作っていたのかを今では思い出すことはできません。
忙しそうにも感じますが、
当時の感覚としては忙しいっていう感覚とはちょっと違う気がします。
それが当たり前でした。
様々な壁を乗り越える
中学3年生になると一気に受験というものが近くになりました。
部活動は2年生が終わる頃に辞めてしまいました。
それほど強いとかはなく、
遊びのような感覚の部活でしたが、
すごく楽しくやっていました。
思いでも沢山あります。
青春時代といえるかもしれません。
それなりに頑張りましたし、
先輩後輩の関係も築けたし、
スポーツを頑張るってことを初めてやりました。
練習するとテニスが上手くなっていくんですね。自分の成長も感じることもできました。
そんな良い思い出のあるテニス部でしたが、
最後は仲間との人間関係が上手くいかなくなったからです。
まあ、喧嘩して仲が悪くなって辞めたわけです。
後に残ったのはラケットとボール。
そしてユニホームでした。
孤独な中でチームワークなんてあったもんじゃないですね。
何となく集団行動って苦手な理由はここにもあるような気がします。
それから何となく人に気を使うような感じになりました。
それからは一層勉強に集中しました。
全学年で250人くらいいたと思いますが、
最初は200番前後の成績でした。
それが勉強することで150番くらいになり、
そして100番以内に入り、
そして50番以内に入って
そんな感じで順位が上がっていくのに嬉しさがありました。
最近の中学校の成績には順位とかないって聞いたことがありますが、
本当でしょうか?
ちょっと面白くない気もします。
競争社会の入り口です。
順位が上がっていくのが楽しかったのです。
認められるかのようでした。
暇な時間をつぶすかのように勉強していました。
眠たい目をこすりながら夜も起きていました。
オールナイトニッポンというラジオを聴きだしたのもこの頃です。
雑誌に載っていた小さなラジオがプレゼントされるものに応募したら当たりました。
それで聞いていました。
そして勉強しては仮眠してを繰り返しました。
分からないものはほとんど丸暗記です。
この頃から暗記は得意です。
勉強方法が暗記に偏りすぎて、
応用力が全然育ちませんでした。
考えることが苦手なタイプになりました。
でも分からないものは仕方が無いと暗記です。
そうしてさらに成績は伸びていきました。
最終的には構内順位も30番以内に入ったと記憶しています。
まあ、それでも進学校でもなんでもないので、
たかが知れています。
なんにせよヤンキーが沢山いるような学校でしたから。
そんな中学3年生を過ごしていました。
そんな中、塾長が今回の卒業生で塾を終わりにするということを決めたと言ってきました。
20~30年程塾をやってきて、
年も取ったし
生徒数も少なくなったし、
ライバル塾も増えてきて
もうそろそろ潮時だという感じでした。
塾長は大学生の頃に知り合いと塾を立ち上げてずっとやってきたそうです。
ですから、最後の受験生という私達に思い入れがあったようにも思います。
我が子のように接してくれていました。
しかし、私達もまだまだ子供。
その頃はストリートファイターⅡというゲームが大流行して、
ゲームセンターに入り浸っていました。
勉強に集中していないので、
塾長にもばれました。
寂しかったでしょうね。
そんな感じで勉強はそこそこの成績で終わり、
私は志望校を受けることなく、
成績どおりの高校を受験しました。
福岡にある私立高校です。
男子校でマンモス校。
東福岡高校。
恐らく受かるだろうと甘く見ていましたが、
テスト当日は焦りました。
得意の数学が上手く解けないんです。
後から分かることですが、
試験の結果はものすごく悪くて何とか受かったような状況だったそうです。
そして、公立高校の試験は遊園地の近くにある高校を受験しました。
私の成績ではギリギリ受かるかどうかのボーダーラインに位置する高校です。
試験後は受かったかどうか分からない何ともいえない気分です。
手ごたえは全くありませんでした。
そうして合格発表を待ちます。
おじいちゃんも太宰府天満宮の御守りを買ってくれていました。
まあ、どうにか受かっているだろうと安易な気持ちで生活していました。
そして合格発表日。
友達が受験校に合格発表を見に行こうってお誘いがありました。
私は「そうだね!」って気軽に返しました。
そして、最寄のJRで香椎駅まで行って、西鉄電車に乗り換えて
香椎花園駅まで行きました。
そこから歩いて5分くらいのところに高校はあります。
そして、
合格番号が張り出されるのを待ちます。
ドキドキします。
そしてその瞬間は来ました。
職員の方達がボードに合格者受験番号の一覧を張り出します。
そして私は友達と一緒に自分の受験番号を探します。
かすかに友達の声が聞こえます。
「やった、合格」
私も急いで番号を探します。
…
あるはずの場所に私の受験番号はありません。
「ん?」
補欠に入っているのかな?
一覧の最後のほうを見渡して見ます。
番号は数字の少ないほうから順番で並んでいるので、
探せないということはありません。
でも信じることを受け入れられないんですね。
私の番号はありませんでした。
私はパニックになっていました。
動揺していました。
この高校は同じ学校から数人受けていました。
仲の良い人も複数人いました。
そして彼らも合格発表に来ていました。
私は彼らと会いたくないと思いました。
悔しくて悔しくて、これまで経験したことのないような
今にも泣き出しそうな悔しさだったのを覚えています。
帰りは必ず最寄の電車に乗らなければ返ることができません。
すぐさまこの場から立ち去りました。
動揺を隠せないまま早歩きで駅まで歩きました。
駅のホームに立ち。
「電車よ早く来い早く来い…」
全く来る気配がありません。
そうこうする内に
合格結果を見に来ていた大勢の学生達がぞろぞろと駅に集まり始めました。
知らない人はいいとして、知ってる人が来ないことを祈りました。
祈ったところで帰るには必ずその駅に来ないといけないので、
必ず来ます。
すると帰りの電車が到着しました。
すぐに乗り込み、外を眺めます。
どうやら近くに友人達はいないようです。
そこから帰宅までの記憶は全くありません。
西鉄電車からJRに乗り換えて、駅から徒歩10くらいで家に着くのですが、
絶望していたのでしょう。
どうしても思い出せないのです。
中学3年生の後半はこのような感じでフェードアウトしていきます。
どこかこの結果には予感していましたが、
現実を突きつけられるとショックは大きかったです。
親、祖父母などどのように感じていたのでしょう。
そうして中学3年間は終わっていきました。
義務付けることを演じていた
高校受験は、他人から見れば失敗に見えるかもしれませんが、
私にとってはこれで良かったと思うことにしました。
学力的にも納得していた高校でしたし、
男子校ということで、この時期にしか体験できないことだし、
同じ中学からも何人か知り合いも行っていました。
入学すると、中学校時代に通っていた塾の塾長がいました。
塾長はこの高校の教師だったのです。
実は中3の最後のほうに卒塾の時期がありました。
母親も後から着ましたが、
その時に塾長から、この高校の教師であることを打ち明けられました。
塾に通っているときから塾長はどこかの高校教師であると言ってはいました。
それがこの高校だとは知りませんでした。
でも、ひょっとしたら…
なんてことは思ってはいました。
入学してから、すぐに呼び出されました。
そして、受験のときの結果がかなり悪かったと聞きました。
手ごたえがほとんどなかったので、何となくそうなんじゃないかと思ってはいましたが、
そうして入ったクラスは数学の先生が担任のクラスです。
この高校はスポーツでも全国的に有名な高校でして、
そのスポーツで入った人も多いクラスでした。
簡単に言うと成績がそこそこかしたレベルのクラスです。
でも、今思えばよかったです。
高校に入った当初は何とか入った高校だったので、
周りの皆が私よりも頭がいいのだと思い込んでいました。
ですから、付いていけるかなってずっと思っていました。
受験したときのレベルがギリギリだったので、
入ってくる人達は皆頭がいいんだろうという単純な発想です。
ですが入ってみて思うことは皆あまり変わらないということです。
確かに頭の良い人っています。
実際にいました。
成績が以上に良い人です。
これは本当に勉強してきた人達です。
特進クラスもありましたから、
そこのクラスの人達は別次元です。
僕なんかは勉強してきたと言うよりも、
受験の為に暗記しまくった詰め込み型の人間です。
応用力が乏しかったんです。
ですからちょっとひねられて問題を出されると全くダメでした。
英単語の意味を答えなさいといった問題だと解けるけど、
例文を訳しないさいと言われると分からない。
物理の公式を書きなさいと言われると解けるけど、
文章にされて解きなさいといわれると分からない。
となるタイプです。
そんな感じだったので、
そんなクラスでよかったかなってその時は思っていました。
友達は全く少ないほうです。
なぜかなじみませんでした。
話しますけど、遊んだりすることはほとんどありませんでした。
遊ぶのは家の近くの友達の方がほとんどでした。
まあ、家の近所といってもそれほど友達も多くなかったので、
そんなにないですけど、
幼馴染がいたので、その友人の家に行ってはゲームをやっていました。
高校時代に特にはまってやっていたのが三国志です。
コーエーという会社が出したシュミレーションゲームです。
小学生の時にファミコンの信長の野望にはまったり、ナムコから出ていた三国志にはまったりして、
夢中でやっていました。
その頃から何となく国を強くしたり、自分の領地を増やしていくようなことが好きだったようです。
経営ってものを学ぶことはできませんが、
そもそもそういうことが好きなんだと思います。
コーエー(光栄)はテクもと合併、ナムコはバンダイと経営統合しましたね。
歴史を感じます。
そんなこともあって高校時代にはコーエーの三国志を友人と夢中でやっていました。
そこから私は三国志そのものにハマって三国志オタクとなっていきます。
最初は横山光輝さんが書いたコミックの買って読みまくってました。
小学校のときです。
全部で60巻あるので、1月に1冊ずつ買ってもらって何度も読んでいました。
ですから、全部そろえるのに何年もかかった記憶があります。
三国志が好きでコーエーの三国志シリーズは社会人になるまでずっと買ってやってました。
さすがに社会人になると飽きてきたのでやらなくなりましたが。
マンガと言えば、三国志も好きで集めて読んでましたが、
ドラゴンボールも買ってました。
初めて買ってもらったマンガがドラゴンボールでした。
今でも覚えてますが、14巻です。
悟空がピッコロ大魔王と戦って決着をつけるところです。
当時テレビアニメでもドラゴンボールがあってて、
たまたま行った町の本屋でやってもらったものです。
一番新しい巻がそれだったの、何となく表紙の絵もテレビにはなくてカッコ良かったし、
本当になんとなく買ってもらいました。
漫画の面白さにはまったのもその頃からです。
テレビではまだやってない場面も書いてあったので、
それもまた新鮮だったのも覚えています。
今でも実家にあると思いますが、
その巻だけ買ったときから付いているカバーの部分がありません。
本を棚にしまったときにも見える部分には
本を買い揃えていったときに1つの絵になるようになっていて
14巻の部分だけがないので、
絵が完成しません。
ちなみにドラゴンボールは登場人物が並んでいくというものです。
そんな感じで遊びと言えば地元の友達とゲームをするというパターンが多かったです。
後はマンガをよく読んでいました。
ゲームセンターにもよく行くようになりました。
ただ、お小遣い制で月に3,000円もらっていたので、
それほど使えるお金はありませんでした。
やはり欲しいものもありますので、
ゲームセンターにばかりに使うわけにもいきません。
CDも欲しかったし、ゲームソフトも欲しいし。
なので、友人がやるのを見物することも多かったです。
そして身ながらやり方やコツを覚えてから
やるということをやっていました。
イメージトレーニングのような感覚です。
今思うと、高校1年は中間、期末テストでとにかく頑張って(暗記)いい点数とって、
遊びは幼馴染とゲームしたりゲーセン行ったり、
家ではマンガ読んだり、ドラマ見たり、音楽聴いたりしていました。
学校の勉強は、1学期の期末テストで何となく頑張ってしまい、
なぜかクラスで1番の成績を取りました。
高校に入って、同じような学力の人達が集まったと思い、
僕はちょっと勉強しないと遅れるだろうと思い、
ちょっと頑張ったんです。
すると、なぜかクラスで1番。
学年全体でも上位。
ここから僕の高校生活は勉強をしなければならない方向へと舵を切ります。
それでも根本的には暗記メインです。
本当の応用力があるわけではありません。
なんとなくテストで出るところって分かるじゃないですか。
先生がヒントくれたり、
そういうわけでいい点数が取れたのです。
もちろん学年末の成績もかなりいい点数が取れました。
学年でも20数番だったと記憶しています。
学年で1000人近くいたのでかなりいい順位です。
特進クラスの中に食い込んでいます。
そんな感じで高校1年は終わりに向います。
二年生に上がる前に先生に聞かれました。
2年に上がるときに、
特進クラスに入れるけど、どうする?
私は悩みました。
自分にそれほどの学力があるとは思いませんでした。
テストに出るところを記憶してそのテストではよかっただけです。
ですから、暗記科目は得意ですが、応用となるとあまり良くありませんでした。
1年生のときは全クラスが普通科クラスとなっていますが、
2年生からは文系か理系になります。
私は迷わず理系を選択しました。
文系科目よりも理系科目の方が得意でしたし、好きでした。
そこも運命の分かれ道です。
なので、特進クラスの理系となります。
成績はよかったですが、
特進に付いていけるか本当に不安でした。
そんなとき、中学校のときに塾長だった先生が私を呼び出しました。
先生は迷っている私の背中を押してくれました。
「特進クラスに行きなさい。」
必ずいい方向に行くから。
その言葉を聞いて、決心しました。
特進クラスに入ることになりました。
そして、高校1年は終わりました。
THE 受験戦争
特進クラスではじまる高校2年の始まりは不安の連続でした。
1年の3学期が終わって、2年生に上がるまでの期間は冬休みがあります。
その冬休みから2年生は始まりました。
クラスに行ってみると、大半の人は1年生から特進クラスにいて
そのままいた人達でした。
入るなりいきなり洗礼を受けます。
しょっぱなの授業でも容赦なく数学の授業が始まりました。
いきなりテストです。
見たこともやったこともないような問題が並んでいます。
括弧書きで大学の名前が書いてあります。
そう受験テストで実際に出された過去問です。
僕には1問も解けませんでした。
周りの皆は解けているようでした。
カリカリ答案用紙に書いています。
流れに身を任せて特進に入ったものの、予想していた通り、
僕の想像を超えたレベルです。
こんなレベルのクラスに2年間もいるのかと思うと途方もないことのように感じました。
そうして強制的にも勉強しなければならない環境に身を置かざるを得なくなりました。
ここからは夏休みとか冬休みとか長期的な休みはなくなります。
学校的には休みですが、
クラス的には課外授業として毎日普段と変わらない授業があります。
休みじゃないときも普通クラスの人達が始まる1時限目よりももっと早くから0時限目があります。
朝課外があります。
そして大半の人がっ授業を終えて帰宅する頃から、
またまた課外授業が始まります。
それも2時限分あるんです。
「ぶら下がり課外」「垂れ下がり課外」なんて読んでました。
1時限が1時間半あったと思います。
とにかく1日中勉強って感じです。
毎日毎日勉強です。
今思い返しても勉強ばっかりだった気がします。
僕なんかは初めから優秀でも何でもないですし、
クラスの中でも熱心に勉強するタイプでもなかったと思います。
なのでそんなイメージばかりです。
もちろん遊んだことも覚えてますよ。
夏休みなんかは毎日授業があるので、それが夕方くらいに終わるので、
それから友人の家に急いで行って、
ひたすら三国志1(光栄)をやってました。
そしてゲームセンターにもよく行きました。
ストリートファイターⅡ(ストⅡ)、バーチャファイター、鉄拳、
この辺のいわゆる格闘ゲーム(格ゲー)をやりまくってました。
ゲーム業界ではヒット商品だったと思います。
どこのゲーセンにもおいてありましたし、
大会とかもあってました。
近くの玩具やの入り口とかにも置いてあって、
待ちが出たりして並んでました。
そのくらい流行ってたと思います。
お金は無かったですがよく行ってました。
強いことが1つのステータスでした。
おのずと勉強からも遠のきます。
しかし、そんなことはお構い無しに授業は猛烈な速さで進んでいきます。
カリキュラム的には高校3年生までに習うことを、
2年までに終わらせて、
3年生からは徹底的に問題を解きまくるというスタイルです。
ですから、嫌でもやらされますし、
できなければ、できるまで居残りもあります。
クラスでは最下位争いです。
しかし、大学受験という大イベントが着々と近づいていました。
2年も終わる頃になってくると、
どの位の勉強をしなきゃいけないのかが何となく分かってきます。
自分の中ではどの辺の大学には行きたいというのが
イメージできています。
国立大学なのか私立大学なのか。
学力レベル的にはどの辺りには行きたいのか。
大学はどこに行きたいのか。
そうすると、自分のレベルがどの位の位置にいるかは、
常日頃やっている勉強やテストなんかで分かりますから。
受験までにどの位の学力に持っていかないといけないのかが分かってきます。
そして、どの位の勉強をしなければいけないのかも分かってきます。
化学の勉強にしても、この問題集を1日1ページしていったら、
残り1年で何回解けるのかが分かってきます。
最低3回はやらないといけないし、
分からない問題は分かるまでやらないといけない。
そう考えると少々焦りが出てきます。
それほど勉強が得意ではないと分かっているので、
最初から完全に私立大学狙いです。
私立は受験科目数が3科目です。
国立は5科目です。
5科目極めるなんて僕にはできないと思いました。
しかも英語は必須です。
英語はかなり苦手でした。
理系だった僕は数学と理科(化学専攻でした)に特化して勉強することに決めました。
クラス的には国立受験が当たり前のクラスでしたが、
内心無理だと感じてましたので、
自分の中では私立に目標を設定しました。
そして数学と化学でぶっちぎりの得点を出して低い英語力を補う。
そんな戦法にしました。
何となく2年生後半から実践していきました。
子の頃から深夜に放送していたラジオ番組「オールナイトニッポン」を聞くようになりました。
実家の隣に住んでいたおじいちゃんから、
「夜遅くまで勉強してるなんて感心だ」
なんて言われてましたが、
ラジオ聞いたり、ゲームしたり、居眠りこいたりしていました(笑)
そうしてあっという間に2年生は過ぎていきました。
気付き始めてからギアが入った
3年生なると、本来のカリキュラムはほぼ終わり、
徹底的に問題を解き学力を上げていくという授業になりました。
休みもありません。
あるはずの夏休みも休みはお盆のみです。
この頃の記憶は家と学校の往復です。
遊んでもいたでしょうが、イメージ的には勉強ばかりしていた記憶です。
友達とも遊んだし、親戚とも遊んだし、漫画も読んだし、テレビドラマも見まくっていたと思います。
音楽番組も見ていたし、映画も見ていました。
だから、完全なガリ勉だったというわけではありません。
そんな中でも一日に何時間かは家で勉強するってことは続けていました。
学校でも問題ばかりを解いて、家でも復習したり問題解いたりしていますから、
そりゃ学力も上がっていきます。
がむしゃらに勉強だけしていたら、もっとレベル上がっていたでしょうね。
自分で自発的に勉強ができるようになって、
変な自信のようなものがありました。
全く根拠のないものですが、
これだけのことをやれば、これだけのことができると分かっていました。
僕の勉強スタイルで学力が上がり始めます。
偏ってます。
数学と化学の成績だけがどんどん上がっています。
もちろん先生は全ての科目をやれと言いますよ。
特進クラスはそういう名目のクラスですから
先生の立場からは全部やれって言います。
ですが、たま~に口が滑ったように
ダメそうだったら超得意科目を1つ作って、
普通に得意科目を作って
1つはそこそこでいい。
僕もそれを狙いました。
数学は限界を感じていました。
ある一定のレベルには到達していましたが、
もう1つ上の壁を乗り越えることが無理だと感じました。
センスが無いというか、
応用力が無いというか、
できる人はヒラメキが違うんですよね。
さらっと難問を解いていきます。
ですから、数学はある程度のレベルを保つことを意識しました。
一方の化学は、かなり暗記の科目です。
応用力もそれほど要りませんでした。
僕としてはやりやすい教科で、
ここを伸ばそうとしました。
暗記には自信があったので、
徹底的に暗記しました。
計算問題もほとんど比例計算だったし、
公式もある程度の数、
問題も決まったものが多かったです。
ここを超得意科目にしようと決めました。
大学受験レベルの問題を解いては、
解法を学び、
できるまでやりこみました。
暗記できるものはとことん暗記しました。
そうすると、ある時期から成績が伸びまくったのです。
学年でトップクラスです。
偏差値で70台でした。
(今は偏差値って言わないのかな?)
何となく余裕が出てきたし、
いい成績が出たことがうれしかったです。
総合得点では落ちこぼれです。
でも化学だけは満点に近い点数です。
数学もクラスでは下ですが、
全国レベル的には上位です。
英語は最後は捨ててました。
学校のテストでパスするくらいにセーブしていました。
英語の勉強をする時間があったら数学や化学をやりました。
得意分野を伸ばしました。
そうして高校3年間も終わりに近づきます。
今までの集大成のときが近づいてきます。
何となく最後の方はめちゃくちゃ追い込みをかけるような勉強はしていませんでした。
志望校には入れるという自信がありました。
本当は国立大学に行くのがいいんだと思いますが、
これまでそれほど優秀であったわけでもない自分が、
ここまでこれた満足感がありました。
受験は終わっていないので気を抜いている場合ではありませんから、
勉強はしています。
ただそんな気持ちがどこかでありました。
高校受験では辛い思いをしました。
高校に入って、
高校受験の時に僕は落ちたけど、
受かっていった友人達の顔を思い出し、
その悔しさをバネに頑張ってきました。
そして大学受験が始まります。
結局10校ほど願書を出しました。
担任の先生が、「浪人生だけはするな。」
と言っていました。
浪人していい大学に行けるほど甘くないし、
すごく大変だし、
浪人していいところに行ったという話をあまり聞かない。
ということでした。
もちろん生徒達を奮い立たせることだったろうと思いましたが、
浪人はしたくないと思いました。
こんな勉強漬けの日々をまた1年間やるなんて本当に嫌でした。。
そして受験です。
実は受験の前までゲーセンに行って遊んでいました。
どこかやりきった感があって、自信がありました。
もうやることはない。
後は気持ちを集中することだけだ。
と遊びに行くのですから、親はカンカンです。
そんなこともありましたね。
同じ大学でも学科違いで2~3学科受け、
第一志望校も3回受けました。
大学校というものも受けました。
防衛大、水産大、職能大。
そして、地元の大学を3校ほど。
結構お金かかります。
1に付き3万円かかるので、10校受けると30万です。
受験するだけでです。
受かれば入学金入れないといけませんし、
1校に付き100万くらいでしょうか。
いやはや恐いです。
受験は固まった日付であるので、
試験結果が出る前に全ての大学を受けることになります。
なぜか試験は冷静でした。
英語以外はかなり納得のいく感覚です。
「受かったな。」
そう思いました。
途中で、一番レベルの低い大学なんて受験もしませんでした。
願書は出しましたが、受けませんでした。
もし他の大学が全部ダメでもこの大学しか受からなかったら浪人しようと考えたので、
受けるのも止めたんです。
親の意向もありました。
低いレベルのところには行ってほしくなさそうな雰囲気を感じたからです。
そうしたら受けるのも馬鹿馬鹿しい、面倒だし。
そうして受験は終わりました。
センター試験もありましたが、
センター試験は散々な結果でした。
先生に国立大学を受けられるところが無いと言われました。
受けて夜間の…
まあ、断念しました。
受けても受かりませんから。
そうして私立一本結果を待ちます。
受験が終わると学校の授業もありません。
自宅待機です。
合格発表日が近づいてきます。
発表の日、自宅にいると郵便が届きます。
気持ちはそわそわしています。
大学からの郵便です。
手のひらサイズの封筒です。
少し厚みがあります。
気持ちは穏やかですが、ちょっとドキドキしています。
開けてみます。
そこには
『合格』
僕は志望校に合格しました。
何ともいえない心地よい気分でした。
高校受験で失敗したときのことも思い出します。
ジワジワと嬉しさがこみ上げてきます。
今までの苦労ってこのためにあったんだなと感じました。
苦しかったことも何もかもが良かったと思えました。
それから次々と受験した大学から封筒が送られて着ました。
開けてみます。
『合格』
次を開けます。
『合格』
次を開けます。
『合格』
この感覚は何でしょうか。
見事なまでに合格通知ばかりです。
心地よいスッキリとした気持ちでした。
何か解き放たれたような開放感。
努力が報われた瞬間でした。
高校受験に失敗したときのことも思い出します。
誰と戦っていたのかは分かりませんが、
そんなこともどうでも良くなりました。
別の高校に通っていた友人が遊びに来ました。
彼は大学には行かず就職を選びました。
彼も喜んでくれました。
ほとんどの結果が出ました。
残りは1校ですが、これはちょっとレベルが高い大学だったので、
受かってないとあきらめていました。
でも、行きたいと思っていた大学には受かっていたので、
気持ちはもうその大学で決まっていました。
母も父も祖父も祖母もめちゃくちゃ喜んでくれました。
こんな嬉しい気持ちになったのは、
これまで生きてきてはじめてのことでした。
これまでの呪縛から解放され、気ままに生きてみた。しかし…
大学受験が自分なりに成功し、
とても心地よい気分でした。
大学入学の時期がとても楽しみでした。
その間にもちょくちょく連絡があってました。
一番喜んでくれたのはもちろん家族です。
そして隣に住んでいる祖父母。
「遠くに行かんでいい。」
こう言ってくれていました。
そして高校の担任の先生もビックリしていました。
「よく受かったな~!」
「ビックリしたぞ。」
「恐らくダメだろうと思っていたから…!」
こんな言葉が返ってきました。
「私は受かる予定だったよ」
そう心でつぶやきました。
そしていよいよ大学入学です。
不安と期待が入り混じり、
ワクワクしています。
高校入学のときのような気分ではありません。
何か分からないけど楽しいことが待っている。
そう思っていました。
今までドラマで見てきたようなキャンパスライフが待っている。
そう思っていました。
入学式には母親と行きました。
慣れないスーツ姿です。
大学に入るまでにも大金が必要でしたが、
入ってからも必要です。
教科書やら体育のジャージやら色々要ります。
また、高校のときのように学区とかないですから、
私の場合は実家からちょっと距離がありました。
電車とバスを乗り継いで2時間半…
今まで自転車で20分くらいで高校に行っていたので、
途方もない時間に感じます。
朝からラッシュに巻き込まれて電車もバスもギュウギュウ詰めか、
もしくは乗れないなんてこともありました。
今まで自転車だったので、公共機関を使うってのも大変だなと感じました。
まあ仕方がないので、
我慢します。
しかし、そんな通学生活もだんだん嫌になってきたので、
原付免許をとることにしました。
高校を卒業してから大学入学するまでアルバイトをしました。
人生初めてのアルバイトです。
掃除会社のアルバイトだったのですが、
日給8,000円でした。
銀行やオフィスなどの清掃からワックスがけ、
掃除といっても建築現場などの過酷な環境での作業もありました。
1日中ひたすら汚れた壁を紙やすりで削る。
なんてこともありました。
それでも働くってこういうことなんだと思い頑張りました。
ただ、大学に入学するまでの短期アルバイトだったので
それまでの辛抱と思ってやっていました。
ずっとこれをやるとなるとかなりしんどいです。
そういえば保育園や幼稚園の掃除にも行きましたね。
ありえないところに便がしてあって驚きました。
ビビリました。
子供ってすごいです。
話はそれましたが、
大学に入るまでの期間にバイトしたお陰でちょっとお金がありました。
その資金を元に原付免許取得に向けて動きます。
大学に入ってから1ヶ月くらいは電車とバス通勤です。
定期代ももったいないし、
原付を買ったほうが長期的に見てもお得です。
原付免許の試験は指定の自動車学校にて1日あります。
初めての免許試験に勉強不足&緊張にて落ちました。
1週間後に再チャレンジして合格しました。
筆記試験合格後、
実技講習がありましたが、
「試験官が原付に乗れる人はこちらです。」
と言っていました。
原付免許の試験を受けに来ているのに、
運転できる人を呼ぶってどういうことだろう?
って疑問でした。
今でも腑に落ちない出来事です。
合格した私は母親と一緒に家の近所のバイクやさんに行きました。
そしてその当時テレビCMでもやっていた「ジョグ」(jog)というヤマハの原付が気に入りました。
通称アプリオだったと思います。
テレビCMは元日本代表サッカー選手のゴン中山がやっててすごく印象に残っています。
この原付とヘルメットとカッパを購入しました。
もちろん任意保険も加入です。
稼いだアルバイト代は綺麗さっぱりなくなりました。
そうそう思い出しました。
最初に原付の試験を受けたくらいで入学のときに買った通学用の定期券がなくなったんですが、
1ヶ月分ですね。
その試験に落ちてしまったので、
次の試験までは1週間あります。
私は1週間の期間の為に1ヶ月分の定期代を買うのがもったいないと感じました。
私はそこから1週間自転車通学をしようと思いました。
そういった根性はあったようです。
自転車通学は慣れていました。
高校のときも毎日自転車でしたから。
しかし高校のときは20分程度。
今度は倍以上の距離があります。
時間にしても
自転車かっ飛ばして1時間半はかかります。
でも私は1週間こなしました。
そんなことはもうやりたくない、
そんな気持ちが芽生えたのか、
今度は真剣に勉強して合格にこぎつけました。
いい思いでです。
人間1時間以上も自転車かっ飛ばしていたら
汗だくです。
その1週間は毎日私だけ1時限目は汗だくで授業受けてました。
そんな感じで大学生活は始まりました。
まだまだ大学生活になじんでいませんから真面目です(笑)
授業も真面目に出席します。
理系だったので、
ほとんどが必須科目でしたから
出なければなりませんでした。
サークルにも入りました。
中学生の時に軟式テニスの部活に入っていたので、
大学で仲良くなった友人と入りました。
ただ、サークルにはすぐに行かなくなりました。
サークルの新歓コンパなる飲み会に行ったときに
衝撃を受けます。
先輩達は何かの音頭と共にはっちゃけてビールを一気飲みします。
そしてドンちゃん騒ぎが始まりました。
もともと人見知りだった私はあまり溶け込むこともなく、
ただ時間が過ぎていきました。
こんな光景は見たことがなかったので、
少し動揺していました。
そうすると見たことのある顔もちらほら。
同じクラスの人が何人かサークルに入っていました。
飲み会で仲良くなったので、
そのまま新歓コンパを抜け出し、
友人数名で行動しました。
出来上がったばかりのキャナルシティにいきました。
大学に入る前の掃除のアルバイトで数回作業をした場所だったので
何となく思い出があります。
そして喫茶店に入りました。
お水を頂くと、500円んと書いてありました。
都会は水を飲むのも金がかかるんだなとビビリました。
そうして数人の人を仲が良くなったので、
しかも同じクラスだったので、
サークルは行かなくなったのです。
学業のほうですが、
高校では化学を専攻していたんですが、
大学に入ると物理科目ばかりです。
化学系の学科も合格していたんですが、
卒業後の華やかさから、
情報系の学科に入学しました。
運命の分かれ道です。
そういった理由で、
何となく明るい世界が待ってるんじゃないかと専攻しました。
ですが、
あまり勉強してこなかった分野ですから、
不安の連続です。
勉強全く分からないですから。
理系だったとは言え、
勉強してこなかったものは分かりません。
ですから、
学業は苦労しました。
それでもやれば何とかなると思ったので、
ある程度勉強も頑張ります。
ですが、
大学と言うのは誘惑の宝庫で、
しかも高校での箱詰めから解放されたのもあり、
ほとんど勉強をしなくなりました。
そんなもんで、
1年生の前期が終わる頃、
取得単位はかなり少なかったです。
確か50数単位取れるところを30数単位しか取れませんでした。
まあ、それでもどこか楽観的に同じような仲間を探しました。
そして探して、
ちょっと仲間がいるので安心してました。
こうやって何となく学業はやり過ごす癖が付いていきます。
夏休みに入り、
久しぶりの長期休暇を満喫します。
高校生活では勉強ばかりで長期休暇がありませんでしたから、
とても楽しみにしていました。
大学になったら必ずやりたかったのが
アルバイトです。
高校まではやったことがなかったので、
大学に入ったら必ずやりたいと思っていました。
厳密に言うと高校から大学に入学するまでの間、
1ヶ月間だけアルバイトしてます。
長期休暇しかも今までの学生生活では味わったことのないくらい長期。
2ヶ月間。
テスト終了後からすぐに夏休みが始まるので、
テスト中からウキウキです。
そして宿題とかもありません。
後から思いましたが、
1年の半分近く休みです。
土日休みだし、
夏休みは2ヶ月、
冬休みは1ヶ月、
春休みは2ヵ月半。
初めての夏休みで、
新聞広告で見つけた飛脚マークの運送会社で働きました。
内容は倉庫内での商品の検品作業です。
大学に入って初めてのアルバイト、
本格的なアルバイトは人生2回目です。
色んな不安がありました。
初めてですから。
入ってみると私はその部署で初めてのアルバイトでした。
他のアルバイトの人も初めてのスタッフばかり。
ですから、
最初は私ともう一人の二人だけでした。
パートのおばちゃんたちはもう何年もやっているようでした。
もう一人のアルバイトの方と一緒にするわけではなかったので、
実質は一人で先輩の方と一緒にやっていきました。
やることは箱から商品を出して、
不具合箇所が無いかチェックして、
再び箱に入れていくだけなので、
何も難しくありません。
前にやった掃除のアルバイトよりもはるかに楽で、
こんないい仕事があるんだと感じました。
それでもずっと立ちっぱなしで、
時には重たいものもあります。
ですが、
感覚的には楽だという印象でした。
数日すると新しいメンバーが入ってきました。
同じ年の人で、
今はフリーターをやっている人でした。
そうして夏休みを利用してなのか、
続々と新しいメンバーが入ってきました。
学生、フリーター、副業、主婦の方など様々。
学生が一番多かったですね。
年齢も下は18歳から上も50代くらいまでいました。
一番仲良くなるのは同年代です。
同じ年の人も何人かいましたが、
その中でも同じ年齢の人がやはり一番仲良くなりました。
同じ空気を持った人って何となく分かりますよね。
たまたま同じ年齢で、同じ中学校卒業で同じ大学に通っている男子が入ってきました。
彼とは同じ臭いというか、性格は全く違ってるんですが、
気が合いました。
数名と仲良くしていましたが、
彼とは特に仲が良くなって、毎日のように意味もなく一緒にいました。
家も近かったのもありますね。
私は実家に住んでいたんですが、
部屋が離れになっていて、
何となく自由な空間がありました。
ちょっとうるさくしても大丈夫です。
なので、人も集まりやすかったのもありますね。
それほど友達が多いほうではなかったですが、
よく遊びまわっていました。
大学での友達も数名いましたが、
バイト先で友達になった人達とは全く種類が違っていたように思います。
バイト先の方が奇人変人が多かったような気がします(笑)
遊び方も違ってましたね。
大学のほうは基本的に真面目なんですよ。
バイト先では荒っぽい感じ。
私には荒っぽい感じの方が性に合うというか、面白かった気がします。
ただ、大学のほうもそれはそれで楽しいんですが、
使い分けしてましたね。
大学でのテンション。
バイト先でのテンション。
高校の時にはそういった遊びはしてなかったので、
大学に入ってはじけました。
高校までは親もうるさく言ってましたが、
大学に入るとそこまで言われなくなりました。
今思えばかなりの自由です。
本来私は非常に人見知りで、
大学に入って仲間の作り方というか
人間関係の作り方を学んでいました。
もちろんケンカだってあります。
わるさもしました。
大学1年は勉強と友達作りをやっていた感じです。
あとは、自動車免許を取る為にバイトで稼いだお金を貯金していました。
大学1年も終わりになる頃には30万くらい貯まったので、
春休みに自動車学校へ行きます。
予定通りです。
大学の春休みって長くて、
丸2ヶ月くらいはありました。
テストが終わったらすぐですから、
もっとあったように思います。
その期間に自動車学校に通います。
毎日通って学科を終わらせ、
実技もコツコツこなします。
ただ、毎日バイトに行って、
毎日よる遊んで、
毎日朝から自動車学校、
なんて生活だったので、
めちゃくちゃきつかった思いでもあります。
楽しいのかきついのかどっちだって感じです。
そんなわけで自動車学校の成績が良かったり悪かったりで、
遅刻も連発。
怒られまくりました。
それでも春休み中にはほぼ終わり、
2年生にちょっと入ってましたが、卒業となりました。
すぐに花畑の試験場に行った記憶があります。
ちょうどこの頃、
バイト先の友人の一人がバイクの免許を取ってバイクを買いました。
アメリカンというタイプのバイクで、
バイト先に乗ってきていました。
私はそのかっこよさに心惹かれました。
悩んだ末、
今の状況で車の所有は無理だなということで、
バイクを買いたいと思うようになっていました。
もちろん車の免許はいるので、
先に車の免許を取りました。
自動車学校に行きながらバイトもしていたので、
そのうちにバイク免許のお金も貯まりました。
自動車免許取得と同時にバイクの中型免許を申し込みました。
なぜか違う自動車学校に行きました。
既に車の免許を取っていたので、
バイクでは学科が免除になりました。
若干の割安です。
1ヶ月ほどで取れました。
車ほどは難しくなく取れました。
そこからはバイクが欲しくてたまらなかったので、
免許が取れる前にバイク屋を探し、
お目当てのバイクを探してもらいました。
もちろんアメリカンです。
ドラッグスターというバイクを買いました。
人生で初めての大きな買い物に思いでもたくさんあります。
バイクにたくさん乗りましたが、
思い出のバイクです。
ここからローン地獄の始まりです。
毎月2万5千円の2年払い。
学生の分際でです。
やっぱりきつかったですね。
このバイクのあとにもまたバイクを買っているので、
私は大学時代この後ずっとローンがある生活をしていました。
支払いできなくなったとかはありませんが、
大学時代の大きなものの1つです。
バイトも辞められません。
それでいてお金を使うことに慣れていたので、
お金が必要でした。
遊ぶのにお金が費用でした。
少しは学費に回せよって思いますが、
その頃の私には考える力はありませんでした。
友達と交際するのには必要だったんです。
欲張りな私は欲しいものがたくさんあったんです。
学生にしてはあったと思いますね。
実家暮らしで月にバイト代が10万くらいありましたので、
ローンや支払いをしても5万以上はあったと思います。
多いときには15万くらいあったので、
そこそこあったように思います。
それでも全然足りませんでした。
2年生にもなると学校生活には慣れて、
要領が良くなってきます。
怠けて欠席することもありました。
バイトや遊びを優先したこともあります。
親が見たらがっかりするでしょうね。
ゴースト云々なんてこともあったようですね。
1年生のときは勉強に対して
まだやらなくちゃいけないという感情があったので、
1人でもコツコツやってたんですが、
2年生にもなると余裕が出てくるというか、
なめてるというか、
おろそかになっていきます。
1年のときも頑張っていても単位をかなり落としてしまっていたのにも係わらず、
余裕ぶっこいて適当になります。
期末に単位取得の為のテストがあるんですが、
テストの前日に一夜漬けが多くなります。
授業にも毎回出ていて、
ノートもしっかりと取っている人のノートが出回ったりしてました。
あるいはそういった真面目にやっている人と仲良くなってノートをゲットするなんてせこい考えもありました。
なんとなく安心です。
本質は間違っていますが、そうやって楽しみを優先していました。
私だけでなく、相当数の周りの人もいました。
大学とは学業とはかけ離れていると感じました。
勉強だけなら高校生の頃の方がはるかにやっています。
頭も良かったと思います。
大学では勉強を必死にやったという記憶はありません。
遊び、バイト、人間関係、恋愛、…
そういったものに夢中でした。
今となってはいい思い出としています。
親が聞いたら泣くかも知れません。
その分親孝行するから勘弁してください。
2年生に入って車の免許やバイクの免許を取り、
夏休みが近づきます。
自由気ままな2年生を送っていましたが、
ずっと運送会社の倉庫でバイトしていたので、
これでは面白くないと思ってアルバイトを辞めて新しいバイトをしようと思いました。
人見知りが激しかったし、
人付き合いも得意ではありませんでしたが、
このままではいけないと思ってました。
ですから、
少しずつでも適応能力を上げるために接客の仕事を探します。
最初は家庭教師やテレフォンアポインターを考えましたが、
なんとなく面白みを感じず、
友達とも一緒になって探したりしましたが、
日雇いのバイトばかりしていました。
日雇いのバイトは何となくまとまったお金が入ってこないので、
お金が貯まりません。
またその場限りの人にしか合わないので、
交友関係も増えません。
そんなときに、
気になっていたバイトが募集されていました。
ピザ屋のバイトです。
宅配ピザの宅配スタッフです。
私はビビリ症賞のあがり症で、
新しいことをするときにはドキドキが止まらない性格でした。
ですから
モロ接客よりも接客もあるけど、
ちょっと一人の時間もある外回り的なものを探していました。
その時は待ったのがピザの宅配スタッフでした。
バイクも好きで乗ってたし、
時給もよかったです。
すぐに面接に行きました。
その時の店長と面接をし、
すぐに受かりました。
同時期に入ったバイトは3名。
同じ年の男性が1人と
女性が一人です。
男性は大阪出身の人で、
進学が福岡だったようです。
女性のほうは大分出身で、
こちらも学校が福岡になったとのこと。
二輪での配達の仕事だけにバイク好きの人が数人いました。
私もバイクに乗っていましたが、
アクティブなものに乗っている人が多かったです。
そんなこともあって次第に影響されていきます。
アメリカンに乗っていた私も、
若いときにしかできないだろうし、
運転技術を磨きたい。
そんな気持ちから、
スポーツタイプのバイクに憧れ始めます。
もっと仲良くなりたいという気持ちもありました。
人見知りの激しい私は同期の友人と仲良くしていました、
ただ次第に居心地が悪くなっていました。
当時の私は自分を押し殺して相手に合わせるような性格です。
そして彼は少し気が短く怒りっぽかったのです。
このままでは危険だと思った私は次第に離れるようになります。
そして遠からず近かからず仲良くしていた他のバイト仲間に歩みよります。
皆社交的な感じだったので、
ちょくちょく遊びや飲み会などには誘われます。
こんな環境は今までの人生で初めてのことばかりだったので、
新鮮ですごく楽しかったのを覚えています。
そつなく人間関係作るようなと言っていいかわかりませんが、
基本的に自分の内面や奥にあるような感情を表に出さないし、
相手に気を許さない性格でした。
ですが、
そこでの人間関係は私にすごく刺激を与えます。
一度に全員とは打ち解けられないから、
その中でも一番リーダシップのある人と仲良くなるようにしました。
その人は皆を引っ張っていくような明るく元気で場をすごく盛り上げるのが上手な方でした。
いじられるのもいい感じに心地よかったです。
そんな風にして私はみんなの輪に入っていきました。
特に面白くもない私は2人きりになれる友人は少なかったように思います。
今では何も気にしませんが、
当時の私は極度のあがり症でしたし、
人と係わることが不安だったようにも思います。
本当はすごく仲よくしたいし、
仲良くなる人もいるんです。
よく考えると皆そうなのかなって思うんですが、
当時はコンプレックスも多かったなって思います。
意識しすぎです。
彼とはいつだったか忘れましたが、
いつもと同じようにバイトが終わって食事でもしにいったときだったと思います。
ファミレスのガストに行ったときに、
色んなことを2人で話しました。
何か自分の嫌なこととか思っていることとかを全てぶちまけたときがありました。
そんな自分を認めてほしかったのかもしれません。
ちょっと思い話でもしていたので、
暗い感じでしたが、
誰にも行ったことがないようなことまで話していました。
そうすると彼も私にしか話したことがないようなことを話してくれました。
そこから一気に彼との距離が縮まったような気がします。
お互い自分のことをさらけ出したのですから、
当然といえば当然です。
性格は間反対でしたが、
どこか共通する考えもありました。
今現在までそうですが、
彼ほど仲良く、打ち解け、理解し合った人はいません。
多感な時期ですから、
この頃に経験したことが、
すごく記憶には残っています。
大学でのポジション、
バイトでのポジション、
それ以外の友人関係、
それ以外の人間関係でのポジション。
色んな人との係わり合いがすごく楽しく感じていました。
いわゆる青春時代です。
色んなことを話しました。
過去のこと、未来のこと。
彼以外に中の良いと呼べる人は他に3人かな。
全て同級生です。
小学校1年生からの付き合いの幼馴染。
小学校6年生からの付き合いの近所の親友。
大学1年生からバイトで知り合った同じ大学に通っていた親友。
もうおじさんになってそれほど合うこともなくなりましたが、
どこか心で繋がっている気がします。
彼とはバイクでも色んなところへ行きました。
アメリカンからスポーツバイクに乗り換えたのも彼の影響です。
ほんとによく一緒にいました。
大学の卒業旅行にも行きました。
2人で四国に1週間行きました。
互いに1回ダブっていたので一緒でした。
私がダブった時に同級生は卒業するので、
私は卒業しませんが、
卒業旅行をしたことがあります。
バイトで知り合って同じ大学に通っていた彼とです。
広島まで車で行きました。
夜から出かけて広島に行って、
寝ずに広島でお好み焼き食べました。
どこか忘れましたが、デパートの地下にあるお好み焼き屋です。
そのまま原爆ドームに行きました。
帰りは日本海側から山口県萩経由で帰りました。
途中から私は力尽きて爆睡です。
北九州くらいから彼が運転して帰りました。
丸2日ほとんど寝ずに旅行です。
若い頃ならではです。
よく集合場所にいていたローソンにて解散しました。
彼は卒業後、オーストラリアに留学しました。
1年後、帰ってきて就職しました。
今でもかけがえのない友人です。
大学時代は思い出がありすぎて書ききれません。
ただ、社会人となって既に10年以上のときが過ぎ、
私の人間形成もだいぶ変化が訪れています。
あの頃の私には想像できない
全く予想もしていない環境になっています。
いや、でもどこかで人とは違った人生を歩みたいという願望があったようにも思います。
ほとんどの人が歩むであろう常識には適合することができなかったとも言えます。
大多数の人とは違ってるのであれば、
それは非常識なのかもしれません。
常識から外れることは多少不安もつき物です。
全て自己責任で人生を決定しなければなりません。
人は多数派の意見に安心感を得ます。
しかし、自分を守れるのは自分だけです。
他力本願ではいずれ苦しい状況に追い込まれるでしょう。
駆け足で私の幼少期からの思い出を綴ってみましたが、
多少は楽しんでいただけましたでしょうか?
こんな人生を歩んできた私も曲りなりに有意義な人生になりつつあります。
これからの10年20年が私にとっての大きな試練だと思っています。
どれだけやれるか見ていてください。
社会人になってからのいきさつはプロフィールにも書いてありますので、
興味があれば見てください。
それでは長文を読んでいただき、ありがとうございました。
今後とも宜しくお願いいたします。